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麻布台懐古碑全文

麻布・赤坂・青山地区の歴史は古く、縄文時代(紀元前8000年頃より)にはすでに人類が居住しており、同時代の各種の土器や石器が発見され、平安時代には農耕を守護する神として、弘仁十三年(822年)に竹千代稲荷、
天慶年間(938年〜946年)に朝日神社(日ケ窪稲荷)等が建立された。

鎌倉時代には武蔵国の荘園として南部地区に鎌倉御厨があり、寿永三年(1184年)源頼朝が伊勢大神宮の供物を調進したとの記録がある。武家時代に入り豊臣秀吉の意向を受けて関東を領国とした徳川家康が江戸城に到着したのは天正十八年(1590年)と伝えられている。飯倉の地名に現在は麻布の東端の部分を示すが、古くは東は増上寺山内より、西は麻布竜土、六本木より永坂辺に至ったという。

当事の竜土町は麻布の百姓町であり、町況は地味で人通りもまばらだったという。麻布竜土町は、元和年間(1615年〜1624年)に芝愛宕下や西久保あたりにいた猟師が引き移って現7丁目6番あたりに竜土町をなしたのを起源とし、その名は猟人村のかの字の脱落とか、竜が下ったとか、また流動又は隆動より竜土に変わったなどもいわれる。

明治七年(1874年)11月創立された歩兵第三聯隊は、明治二十二年一月から昭和十四年(1939年)8月近衛歩兵第五聯隊が編成されるまでこの地に駐屯し、聯隊主力は昭和11年5月中国東北部に渡った。その後昭和18年8月より沖縄県宮古島の防衛に任じたが、終戦により聯隊歴史の幕を閉じた。

近衛歩兵第五聯隊は昭和16年1月中国南部に駐屯して、12月大平洋戦争勃発と共に南方戦線に出動し、マレー半島、シンガポール、ジャワを経て北部スマトラ(インドネシア)に駐留し終戦を迎えた。昭和18年5月首都防衛のための近衛歩兵第七聯隊が創立された。現在東京大学生産技術研究所の使用している鉄筋コンクリート造り3階建楕円形の建物は、関東大震災のため倒壊した兵舎を昭和3年6月再建したものである。

現在の港区六本木7丁目22番、同23番のここ麻布台に立って、その変貌を目のあたりにし、栄枯盛衰の歴史を回顧すると、万感こもごも至ってやまない。よって桜花咲き誇った馬屋跡の青山公園に記念の碑を残す。

昭和62年10月25日 近衛歩兵第五聯隊 歩兵第三聯隊    有志一同建立
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